きょうはどこへ行こうか

ばるすーでGO!

福岡城跡(福岡市中央区)

 本日は、久しぶりに福岡城跡へとやってまいりました。
 ここへ来て真っ先に思い出すのは、今を遡ること35年前。1988年11月、今はなき平和台球場で行われた日米野球を観に行ったこと。

上空から見れば跡地は今も球場の形そのもの



 もともと南海ホークスのファン(当時、絶滅危惧種)だった私は、翌年からホークスが福岡ダイエーとしてやってくると聞き狂喜乱舞。そして、ホークスの看板選手だった佐々木誠がその日米野球で、当時全米の大エース・ハーシュハイザーからホームランをかっ飛ばしたのでした。ちなみに、そのとき私は売店にうどんを買いに行っており、ホームランの瞬間を見ていません。なんたる不覚。

さまざまな積み方の石垣が残る



 さて、福岡城を築城したのは黒田長政です。
 1600年(慶長5年)、長政は関ヶ原の戦いで徳川方に加わり、勝ち戦の結果、筑前国(現在の福岡県の1/3くらいの広さ)を与えられ、初代福岡藩主になりました。

 当初は、ここ福岡城ではなく名島城(福岡市東区)に入城したのですが、手狭だったことから1601年(慶長6年)から7年の歳月をかけて、現在の福岡城を完成させたということです。
 福岡という名称は、黒田氏の故郷である備前国邑久郡福岡(現在の岡山県)に由来するとのこと。海側から望むと、鶴が羽ばたく姿に似ていることから「舞鶴城」とも呼ばれているそうですが、実際に目にすることが困難なんでよく分かりません。

(中)南丸北隅櫓、(右上)多聞櫓、(左上、左下)南丸西隅櫓、(右下)名島門



 天守閣は現存しませんが、天守台・多聞櫓(国指定重要文化財)、(伝)潮見櫓・下之橋御門・旧母里太兵衛長屋門(いずれも県指定有形文化財)、名島門(市指定有形文化財)、御鷹屋敷跡など、ほかにも見所はあります。
 
 ところで、現存しないとお話しした天守閣ですが、1646年(正保3年)に描かれた福岡城の絵図「福博惣絵図」に天守閣はなく、もともと黒田官兵衛・長政親子は幕府に遠慮して天守閣を建てなかったのではとする説が有力でした。

天守台跡



 しかし近年、福岡藩のお隣の豊前国小倉藩主だった細川忠興が、自身の三男である忠利へ宛てた1620年3月16日付の手紙に「黒田さんちの長政くんがすんごい立派なお城造ってたのはあんたも聞いたことあるでしょ。これが江戸の徳川さんの逆鱗に触れてねー。で、困った長政くん、だったらもう天守ぶっ壊すわって言ってたんだよね」と天守閣が存在したことを窺わせる記述が発見されたのです。

天守台からの眺め。左上より東、北、西、南を望む



 これによって存在説が浮上、造るには造ったがわずか十数年で取り壊したのではないかともいわれているそうです。今も残る天守台は展望台になっており、福岡の街が360°一望できます。

地下に残る石垣跡



 帰りは、市営地下鉄の建設工事中に見つかったという築城当時の堀の石垣跡を見学。規模は小さいですが、見ておいて損はないものでした。公開は土日のみなのでご注意を。