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名護屋城跡(佐賀県唐津市)

 玉寿司でお腹を満たしたあとは10分程度クルマを走らせ、やってきました名護屋城跡。

大手口跡(写真下)



 「なごや」という音だけ聞くと「尾張名古屋(おわりなごや)」が真っ先に浮かぶと思いますが、今回お邪魔するのは「肥前名護屋(ひぜんなごや)」の名護屋城跡です。

 歴史を紐解けば、名護屋城豊臣秀吉による大陸侵攻(文禄・慶長の役)に当たり、大陸にもっとも近いこの地に造り上げた陣城(じんじろ)です。

天守跡(写真中)、天守台石垣(写真左下)



 陣城とは、諸大名が恒久的に住むためのものではなく、あくまで戦をするための臨時的なもの。
 ところが、この名護屋城は陣城などというレベルのものではなく、当時日本一の規模であった大坂城に次ぐものだったといいます。これは、いかに当時の豊臣秀吉に富と権力が集中していたかを物語るものと言えるでしょう。何もなかった肥前(現在の佐賀)の国の一地方に、あっという間にして20万人が大挙して押し寄せる一大都市が姿を現したのです。

馬場跡(写真中)。ところどころ破却された石垣跡



 築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名による割普請(わりぶしん)によってわずか数ヶ月で完成したといわれています。1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。秀吉自身も、一年あまり滞陣したとしたといいます。

石垣の上から二ノ丸を臨む(写真下)



 周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。
 この地に陣を張った諸大名の中には徳川家康加藤清正石田三成大谷吉継前田利家上杉景勝直江兼続真田信繁伊達政宗など、歴史上絶対に外すことができない超絶有名どころばかり、枚挙にいとまがありません。

遊撃丸(写真右上)とその石垣(写真左上)、馬場横の本丸石垣(写真下)



 現在、それら点在する陣跡は発掘・整備がなされ、はっきりそれと分かるものから、草木に埋もれよく分からないものもあるそう。
 秀吉の死後、名護屋城は廃棄され、江戸時代の初期に破却(はきゃく)されたと考えられており、石垣が広範囲にわたって不自然に取り壊されています。

搦手(からめて)口(写真上2枚)、馬場横の石垣(写真下)

 

 破却された理由は、簡単に言えば賊や幕府への反体制力がここを奪い、根城にすることを未然に防ぐため。
 ご覧のとおり、天守閣はもちろんのこと櫓も現存していませんが、現在も発掘調査を行い、建物の遺構や出土遺物について研究を進めているとのことです。
 眼前に広がる玄界灘と緑の草木に囲まれた穏やかな城跡の風景を眺めていると、まさに「兵(つわもの)どもが夢のあと」と感じる時間でした。

名護屋城(公式サイトより)



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