本日は、福岡県築上郡築上町というところにある「旧藏内邸」を見学します。辺りは山と田んぼ、そして小川が流れるとてものどかなところ。まさに日本の原風景そのものです。
旧藏内邸は、明治時代から昭和前期まで福岡県筑豊地方を中心に炭鉱を経営し、また大分県などで錫(すず)や金の鉱山も経営した藏内次郎作、保房、次郎兵衛の藏内家三代の本家住宅。
邸宅は明治時代39年頃に主屋と応接間棟、そして庭園が造営され、大正5年の藏内鉱業株式会社設立と同時に宝蔵から増築を始め、座敷、炊事場、大広間、茶室、大玄関が池庭に面して大増築されました。また、隣接する貴船神社と鳥居、参道、石橋なども一体として建設され、田園風景の中に堂々と佇む邸宅は建物、庭園とともに当初の状態をよく残しています。
構成は、大胆なデザインの屋根を持つ12畳間の大玄関や18畳2室続きの大広間、10畳2室続きの座敷、煎茶の茶室が池庭に面してたくみに配置され、また豪華な浴室や脱衣場を備え、接客を重視したものとなっています。柱や床板には台湾檜を、そして屋久杉をふんだんに使った畳廊下の弓形天井や格天井など、意匠を凝らした造りには圧倒されます。
国指定名勝である庭園は、大増築する以前の明治39年頃に応接間からの観賞を主眼として作られたもので、池の水は近隣の農業用水路から引き込み、敷地内を地下水路で巡らせて池に注がれています。
大正時代の増築の際、当初の庭園の視点場であった応接間に加え、大きな池を中心に配した庭園の多彩な景色を楽しむことができるように茶室や座敷、大広間を雁行形(がんこうがた)に配置しています。
室内においては欄間、襖の引手、照明や竹を模した雨樋(あまどい)など、非常に手の込んだ細工が施されています。また、仏間の壁紙には金唐革紙(きんからかわし)という西洋の装飾革工芸を和紙で摸した貴重な壁紙が使われています。
藏内家は、中世の豊前国を治めた宇都宮氏の家臣といわれ、宇都宮氏滅亡後はここ深野村で帰農しました。
明治18年、藏内次郎作はいちはやく炭坑に着手していた同族の久良知重敏、政市親子と養子の保房を頼り、田川郡後藤寺で炭坑の採掘を始めます。その後、徐々に規模を拡大していき大正5年、藏内鉱業株式会社を設立、保房が社長に就任。大正8年には全国6位の産出高をあげ、その繁栄を極めましたが、保房は邸宅落成の大正10年に59歳で、次郎作は翌々年77歳で亡くなり、その後は長男の次郎兵衛社長と次男の正次を中心に会社を経営しました。
昭和14年、それまでの炭鉱業から金属鉱業「藏内尾平鉱業所」へと大転換します。しかし戦後の恐慌などで昭和34年、「藏内鉱業」の歴史は幕を閉じました。
藏内次郎作は明治41年から5期にわたり衆議院議員を務め、大正4年には小倉鉄道(現在の日田彦山線)の敷設、城井神社(中津城内)の再建、また保房は田川中学、築上中学の創設、宇島鉄道開通など公共事業に力を注ぎ、次郎兵衛は高崎山(大分市)に万寿寺別院のため土地7万坪を寄進したとのこと。
昔の富豪たちのお金の使い方には本当に頭が下がります。地域の発展のために惜しげもなく私財を投入するのですから。
自分の生活に一杯いっぱいでそんな財産など微塵もない私ですが、それなりに歳を重ね、せめてその精神だけは真似たいと思う今日このごろです。